![]() サトウハチロー (画像提供:サトウハチロー記念館) |
終戦直後、住む所も食べるものも着るものもない、灯火管制は解除されても停電は連夜というそんなころ、街に流れていたのが『リンゴの唄』でした。サトウハチロ―の作詞で作曲は万(まん)城目(じょうめ)正(ただし)。明るい歌詞、軽快なメロデイ。腹が減っていても、停電の夜が続いていても、歌詞の「あの子が見ている青い空」は国民だれしもの開放感そのものでした。そしてNHKラジオの「話の泉」でのダミ声と大口あけての笑い声、明るいキャラクタ―のサトウハチロ―は時代の人気を一身に集めていました。戦後4年の49年、昭和天皇の前でハチロ―と徳川夢声、辰野隆の三人が座談をして、天皇を大笑いさせたという徳川夢声の『天皇陛下大いに笑う』は雑誌「文芸春秋」に載って、「人間天皇」を宣言した天皇への親しみを広く生み出し、「文春」を復活させたといわれています。
早稲田中学を落第していたハチロ―が、キャッチャ―のいない立教中学の野球部に頼まれて臨時に手伝っていたのですが、ある日、「出席不良」で退学処分になってしまいます。「入学してもいないのに退学になった」という話や、家に集っていた美校の生徒に刺激され彼も美校に通い、学生のやりたがらないスト―ブ当番でせっせと石炭をくべていたら、教授がその働きを褒めて「ぜひ君の作品を見たい」と言われて往生したというハチロ―の話に天皇は声をあげて笑われたといいます。
父の佐藤紅(こう)緑(ろく)は、染井霊園の陸羯(くがかつ)南(なん)(第4回参照)の遠縁で書生となって住み込み、そこで正岡子規を知り俳句の指導を受け、やがて大衆小説の人気作家となり、その後少年小説『ああ玉杯に花うけて』で天下を沸かせた作家です。ハチロ―は磊落(らいらく)な父が大好きでしたが、父が劇団を作りその女優に溺れるようになって、自分の存在を確認させるために父親を困らせようと不良行動に走ります。紅緑は癇癪を起こしその度に「勘当だ!」と怒鳴りますが、不良行動はエスカレ―トするばかり。そんなハチロ―の物凄い不良の様子を、義妹の佐藤愛子が『血脈』に描いています。これが実に面白い。
![]() 雑司ヶ谷霊園 1-5号25側25番 |
ハチロ―の不良行動に手を焼いた紅録はハチロ―に妻を持たせて責任のある生き方をさせようとしました。ハチロ―19歳のときで、ハチロ―は現在の上池袋3丁目に所帯を持ちます。明治道りを王子方向に行って豊島病院のところを左に入った木工所の後ろあたりの所です。そのころを覚えていた近所でお店の方から、「おやじ、これ貰うよ」と店のものを勝手に持ってゆくので困ったという話を聞いたことがあります。
わがまま勝手だったハチロ―の上池袋の家に、詩を書いていた菊田一夫が転がり込んできます。ハチロ―がエノケンのいる浅草の劇団「新・カジノ・フォーリー」の文芸部長になったのは、脚本の執筆を担当する契約でしたが、ハチロ―はそれを菊田に押し付け、稿料は自分の懐にしていたといいます。それが後年の大脚本家菊田を育てたのでしょうが、そんなことが出来たのはいい時代であり、いい人間関係だったのでしょう。
ハチロ―の墓は「ふたりで見ると すべてのものは 美しく見える」と刻んで雑司ヶ谷霊園にあり、お弟子さんでハチロ―の詩想を継ぐ宮中雲子さんに「ふたりとは、だれでしょうか」と伺ったら、「誰ときめられない」という答えでした。そのときどきの相手のひとに捧げる真心だったのでしょう。そんな優しさを持ったハチロ―でしたから、戦前から大ヒットを飛ばし続けたのでしょう。