![]() 吟子肖像 |
![]() 雑司ヶ谷霊園にある荻野吟子女史像 |
「自分の生き方を自分の責任できめる」ことで大切な要素は職業の選択です。雑司ヶ谷霊園1種5号23側35番に眠る荻野吟子(1851-1913)は、苦闘の末に女性に許されていなかった女医として道を拓いたひとです。その跡をたどってみます。
吟子の本名は「ぎん」、埼玉県熊谷市の名主彼女が医師を志したのは16歳で結婚したその結婚相手から性病をうつされたことがきっかけだったといいます。離婚して治療のために入院しますが、医師はすべて男性で、下半身を診察されるのが死にたいほど恥ずかしかったといいます。でも、女医は日本中に一人もいません。この経験が吟子に女性のための女医の必要を痛感させ、だれもいないなら自分がその女医になる、と決意させたのです。
一念発起した吟子は上京し国学の私塾に学んだあと、開校した東京女子高等師範学校に入学、懸命の努力を重ね首席で卒業します。しかし、その当時、女医になる道は全くなく専門の勉強をする場もありません。立往生の吟子でしたが、彼女の努力を認めて「医師になる」希望に力添えをしてくれる教授が、石黒忠悳(たどのり)を紹介してくれました。陸軍軍医総監(森鴎外の上役)、陸軍省医務局長で後年日赤の4代目社長となった石黒は医学会の重鎮です。吟子は石黒を訪ねて「女医」の必要を説き高階経徳の経営する私立医学校に入学することになります。石黒という医学会の大ボスのお蔭で入学できたのですが、吟子が直接に門を叩いたなら門前払いだったでしょう。
3年間の在学中、男子学生らの好奇心に満ちた視線や冷たい揶揄に耐えられたのは、初めて専門を学ぶ喜びがあったからです。吟子は勉強に励んで優秀な成績で卒業し、「いよいよ医師への第一歩」と胸を膨らませるのですが、待っていたのは彼女の前に立ち塞がる冷酷な壁でした。いや、壁どころか「女医になる」ための「道」さえ無かったのです。
医師としての資格は国家試験によって認定されますが、「女医」という制度が無いのですから女性には受験資格が無いのです。東京府に「医術開業試験願」を出しても突き返され、翌年内務省に出しても受け付けてもらえるはずもありません。「世の中が女医の道を閉ざしているが、世間はそれを当然だと思っている。親戚からも友達からも諦めるよう勧められ、あるいは馬鹿にされて嘲(あざけ)られるばかり。」と吟子は実情に苦悩し、朝鮮に行って女医の資格を取ろうか、でも、日本ではそれも認めないのでは、と悩みぬき、「進退これ極まれり。百術すべて尽きぬ。」と絶望の叫びをあげています。
![]() 北海道せたな町にある荻野吟子女史顕彰碑(提供:せたな町教育委員会 瀬棚教育事務所) |
高島嘉右衛門の紹介で内務省衛生局長長与専斎と会う機会が得られたのが、吟子にとって千載一遇でした。高島易断の高島嘉右衛門は実業家としても成功した人で、長与専斎は白樺派の作家長与善郎の父でともに進歩的な思想の持ち主でした。吟子の訴えは認められ、そうして初めて女性に許された国家試験が明治17年9月と18年(1885)3月の前・後期に行われ、4名の女性が受験し吟子一人が合格しました。吟子34歳の春、長い長い吟子の苦闘がやっと報われたのでした。
医師免許を受けた吟子は同年5月に、文京区湯島天神近くに産婦人科を開業します。医院には患者が溢れるほどだったといいます。吟子はキリスト教に近づき矢島楫子の「東京婦人矯風会」に入り、その縁で明治女学校の校医、寄宿舎の舎監を勤め、やがて明治23年、北海道開拓を志す青年と再婚して渡道しますが、その一生は職業による女性差別の門をこじ開け、後進の希望の道を拓いたと讃えられるものです。